山は女を勁くする

女性登山家の草分けたち

インタビュー 小倉 董子
編集部・聞き手

 佐藤テル、村井米子、川森左智子、今井喜美子、坂倉登喜子、黒田初子。

 

 日本の女性登山家というとき、まず真っ先に名前の挙がるのが、これら大正から昭和のはじめにかけて活躍した女性たちだろう。女性が山に登るということが白い目で見られていた時代である。
 そのような時期に登り続けられたのは、経済力があったり、リベラルな家庭の子女であったり、結婚後、登山家の夫とともに登り始めるというケースが多かった。登山における「女性の時代」は、戦後に花開く。その草分けである小倉董子さんに、女性と登山についてお話をうかがった。

 

「戦前から女性の集団登山の機会はありました。長野高女の学校登山とか、山のある地域の女学校ではやっていたようです。でも日常的に登山をしたり女学校を卒業してから山を続ける人はあまりいなかった。大学の山岳部では女子を部員として入れてくれなかったから。大学山岳部は男社会でした。

 

ニュージーランド

日本・ニュージーランド女子親善隊。
前列右より後藤(小倉)董子、佐藤テル、鈴木(川井)耿子。
後列右より田村(五百沢)協子、
国立公園レンジャーのハリー氏、 森宏子。

 

 私の父(後藤幹次、日本山岳会名誉会員)は早大山岳部OBで、山形山岳会の会長や、戦後、国体ができたときには日本山岳会の山形支部支部長をしていました。そんな父の影響で子どものころから山に親しむようになり、1951年、早稲田の山岳部に 入部がかないました。その時代は各大学に1人くらい、女性の山岳部員が誕生し始めました。堂本暁子さんは東京女子大でしたが、私と同期の戦友なんです。そうやって戦後の民主主義を体現して、女性が参入していったわけです。
 ただし、扱いも男女平等、30キロもある荷物を担いで歩かなくてはならない。男女の体力差というものがあるから、入部した新人がどんどんやめていくの。なんとかしなくちゃと思って私は『女子部』をつくり、夏山は女子部だけで行動しました。まずは、荷物を軽くするために食糧や装備は、女性の体力に見合った工夫をすべきだと。そういう動きが女性たちのなかに生まれるようになったのが、ある意味で女性登山の歴史の始まりと言ってもいいかもしれません。

 

 戦前、山に登られていた女性たちは、ひとことでいえばエリートですよね。山岳界のスターでしたから、若い時はお互い競争心もあったと思います。たとえばテルさんが冬の富士山に登ったと聞けば、私も、とかね。そうやって刺激しあっていたんじゃないでしょうか。目標があって、はじめて目指せるものがありますから。
 そして戦争中は日本登山史はまったくのブランクになり、先達との接点というものが、戦前と戦後とでいちど途切れてしまった感はあります。ただ戦後、国体が始まったことをきっかけに、全体の登山の団体を統括するために「日本山岳協会」を立ち上げ、社会人団体の人達も活躍するようになりました。男性はもちろんですが、女性たちの登山の目標も多様化し、ここで時代が変わったといえるでしょう。私たちも、山に対する情熱をもって活躍を再開した、女性登山家の草分けと出会うことになりました」

 

 村井、川森、坂倉、今井といった登山家は戦後、婦人懇談会を作って日本山岳会で活躍しはじめていた。「女性であること」を意識的にアピールした活動といえるだろう。1955年、坂倉登喜子が中心となって女性登山グループ「エーデルワイス・クラブ」が発足。また、村井米子はリーダーシップにとみ、国立自然公園や文部省の登山研修所などにかかわる。その後継者としで出版社に勤めていた小倉さんに白羽の矢を立て、のちに小倉さんが女性の指導者養成に携わるきっかけをつくった。

 

 「先輩たちは、私にとって母親くらいに世代がちがいますから、山がなければご縁はできなかったでしょうね。それぞれに、強い個性を備えた方々でした。なかでも村井さんを尊敬しています。後進の育成に尽力した方です。追悼集で私が『畏敬の人』と表現したとおり凛としていらした。村井弦斎さんのお嬢さんでリベラルな家庭のお育ちというのもあったかもしれないけど、堂々として男性に負けない風格がありましたね」

 

 1956年の日本山岳会マナスル登頂の成功で、女性登山家の活動も一躍、国際的な機運がたかまっでいく。日本・ニュージーランド女子親善隊として佐藤テルが隊長となり、森宏子、川井耿子、田村協子、と小倉さんをふくめた女性5名がニュージーラ ンド・アルプスのウォルター山(2903メートル)ほか氷河の山々を登った。

 

 「テルさんはキャリアウーマンで英語が堪能、女優にならないかと誘いがあったほどの美貌でおしゃれ。素敵なジョークを言える方だった。われわれが20代後半で、テルさんは58歳、とても魅力的な人でした。彼女は隊長だったからみんなに国際的な女性としでマナーを身につけさせたい、とルール(私たちは『憲法』と言ってました)まで作ったの。

 

 『姿勢はいつも背筋をのばして』とか『ダンスをするときは付かず離れず』とか『食前の一杯にビールなどもってのほか、シェリーを頼むのが淑女』とか(笑)。でも、その後の海外の山旅では、ふ~と、ああ、これはテルさんから教わったことだわと思うことがありました。彼女には日本の古武士的なところ、明治人の肝の据わったところがあったんです。
 『あなた方は日本のマナーをきちんと身に付けて、それ にかなうよう振舞えば外国でも尊敬されます』と言われました。私たちは『大人の女性』としてテルさんに育てられたことを、生涯忘れないでしょう。テルさんも、亡くなる直前まで『ニュージーランドの旅は楽しかったわ』とおっしゃってました。

 

 テルさんが、私の英語の辞書にこんな言葉を書いてくださったんです。『自分でおもっているほど、人も口もわるくないぶーちゃん(のぶこのニックネーム)へ』-これをみると私はテル先輩に愛されてたんだな、と胸が熱くなりますね」

 

 小倉さんは、結婚し、子育てをするかたわら、公私にわたって登山とかかわりつづけてきた。山に行くことはもはや第二の日常だ。

 

 「登山には、実のところ男も女もないですよ。所詮は自分の足で登るしかないんですから。ただ、山に登っていたからこそ出会えたいろいろな人は、私の財産だと思います。威風堂々としていた村井さんは素晴らしい人でした。坂倉さんには人生の歩き方を教えていただいたし、今井さんは優しさとともに厳しさを教えでいただいた。佐藤テルさんには魅了されました。どの方も、大人になってから出会ったということがよかった。『自分の山』があって、そのうえで先輩に学べたことは大きかったと思います」