ホトケの幹ちゃん、 |
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鴫原 啓佑 |
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今年3月初め、小倉夫人(後藤さんの次女、仲間の愛稱、ブーちゃん)から「父の一周忌をめどに、追悼集を作るので協力してほしい」との電話があった。お世話になった後藤さんのお役に立つなら、と二つ返事で承知した。 後藤さんは稲門の大先輩で、会の重鎮として信望厚く、多くの会員から佛の幹ちゃんと親しまれていた方だった。また日本山岳会でも名誉会員に推されるほど大先輩だし、愛娘のブーちゃんも会員番号3908、私は4186でいくぶん先輩だ。稲門では私の方が先輩、ともに女子部のコーチをした仲だし、私の家内はブーちゃんの近しい後輩でもある。そんな関係で多くの諸先輩の中から、私が発起人の列に加えられたのだろう。 後藤さんは昭和2年卒、私は26年卒、2回り以上の開きがあったので、ご一緒に山登りをする機会はなかった。しかし、前記の関係にあった私が、後藤さんと特に親しくさせていただくようになったきっかけは、何といっても私の最も近しい後輩の小倉君とブーちゃんが結婚してからだ。この結婚は後藤さんもいわゆる花嫁の父として、随分悩まれたようだ。小倉君の人柄について、村木さんに尋ねたり、私も後藤さんの親友だった故渡辺公平さんに呼び出され「董ちゃんがなあ、小倉と話があるようなんだが」と聞かれもした。今、この2人は天国で、きっと好きな山の話でもされていることだろう。 そして小倉君が数年前、定年前に会社をやめて独立し、新事業を始めるときも随分と心配されていた。それだけに、ブーちゃんから新会社が軌道に乗ったことを聞かされたと言って、嬉しそうに語るときの後藤さんの顔は、本当に良いおじいちゃんの顔だった。後藤さんは亡くなる5年ほど前に、胃の手術をされてからは、大分弱られたが、まさかこんなに早く亡くなられるとは予想外だった。 |
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晩年、後藤さんが山形から上京されるたびに、銀座の小松ビル地下のビヤホールに、古い先輩の方々に昼食会を兼ねて集まるのが常だった。一番若いメンバーとして、私は文字通り末席をけがさせていただいた。そんなときの後藤さんは、あの温顔に微笑をたたえ、本当に楽しそうに談笑されていた。また、稲門総会や日本山岳会の年次晩餐会の後では、何人かの方と二次会にもよくお伴させていただき、楽しいときを過ごさせていただいた。
老舗の旅館のご主人という仕事柄、全国を回られて各地の著名岳人とのおつき合いも広く、その温厚で慈愛あふれる人柄で、山仲間に慕われていることは、私が日本山岳会の仕事を手伝うようになってよく判った。 「おじいちゃん」のご冥福を祈りつつ、思いつくままに書きしるしました。最後に、「鬼のブーちゃん」の命名者は、亡き槙有恒さん、その由来はブーちゃんの近著「山歩き讃歌」を読んでください。(稲門山岳会・日本山岳会) |
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