坂倉登喜子先輩  追悼文
2009年 山と渓谷2月号より転載

人生の歩き方も教わった大先輩

小倉董子



坂倉登喜子さんと小倉

明治43(1910)年 東京・日本橋に生まれた坂倉さんは、10歳ごろから父の狩猟のお供で山を歩くようになる。昭和22年、日本山岳会に入会し、昭和30年にエーデルワイス・クラブを創立。エーデルワイスに憧れ、亡くなる数年前まで、国内外の山々に足をのばした。当時、93歳の坂倉さんは、月2〜3回の山行を欠かさないとこたえ、2年後にはクラブ50周年記念山行にも参加。山歩きにとどまらず、『エーデルワイスの詩』(山と渓谷社刊)ほか執筆活動にも精力的だった。2008年12月3日、老衰のため逝去。享年98歳。



坂倉登喜子先輩との出会いは10代の頃。

 私は昭和26年早稲田大学に入学。早大山岳部のOBであった父・後藤幹次は、山岳部に女性の入部は不可能と判断、日本山岳会山形支部長でもあった父は、娘を信頼できる岳友に託すため、私を日本山岳会に入会させてくれた。

 日本山岳会には、戦前の女性会員は、中村テル会員他数名であったが、戦後、村井米子、川森佐智子、坂倉登喜子、黒田初子会員が入会。昭和24年には、女性登山者の養成を目的に、東京支部に婦人部が設立されたのだった。

 その中で最も若い40歳代前半の坂倉登喜子会員は、会員との交流にも積極的だった。ご自身で「酒倉トックリコ」と名乗るユーモアもあり、日本酒党。盃を重ねるほどに場はなごみ、酒飲み仲間の人気者でもあった。しかし、時折真顔で「女性の山登りはピークをめざすだけでなく、静かな山を味わいたいという人もたくさんいるんですよ。そういう人たちにも、正しい登山のあり方を知ってほしいの。そのためには、初心者の指導が大切だと、私は思っているの」と熱っぽく語りはじめる。

   

ウエストン祭

創立当時のエーデルワイス・クラブの人たちと

前列 左側 坂倉登喜子さん
[後藤(小倉)撮影]

   
   彼女の夢にエールを送りつづけた男性が、川崎隆章、山下一夫両会員だった。昭和30年、その念願がかない、女性だけの山の会、エーデルワイス・クラブが誕生した。のちに今井喜美子会員も顧問を引き受けてくれた。
   

2004年10月6日

坂倉日本山岳会名誉会員の講演会

日本山岳会資料委員会主催
東京体育館会議室にて

前列中央 坂倉登喜子さん
エーデルワイス・クラブ
紫蘭会
日本山岳会
の各会員
に囲まれて

   
   時を得たこともあってか、戦後の女性登山をめざす人たちが、どれほどエーデルワイス・クラブの門を叩いたことか。時の流れとともに、山登りの形態も変わり、会員の目標も揺らいだこともあっただろう。だが、会員のクラブへの熱い思いと、多くの岳友にも支えられ、53年という長い歴史と伝統が守られてきた。エーデルワイスの花の如く、凛とした坂倉イズムは、確実に女性たちの心をとらえ、語り継がれていくに違いない。
   

ウエストン祭終了後
エーデルワイス・クラブ合唱団と
一緒に歌う
(小倉の右隣 坂倉登喜子さん)

   
   エーデルワイス・クラブ誕生から20年後、私は朝日カルチャーセンターで「女性のための登山教室」の講師を任され、その修了生の希望で、登山同好会「紫蘭会」が発足。5年前のウェストン祭での私の講演が縁で、エーデルワイス・クラブと紫蘭会がジョイントし、絆を深めることを誓った。個人的には、坂倉先輩から人生の歩き方を学ばせていただいた。精いっぱい生きられたお疲れを癒し、ゆっくりお休みください。感謝をこめて……。
(おぐら・のぶこ 日本山岳会永年会員 紫蘭会会長)
   

第57回 ウエストン祭

小倉 講演

講演の内容はこちらです

(ブラウザの「戻る」ボタンでここにお戻り下さい)