登山家 小倉董子さん (1)父と娘の共通項 水戸部 浩子 |
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いつ思いだしても初めて山の気にふれたときの幼年の印象は、忘れられない。大人にまじり、子供らしくない役割を演じた山での交流は幼いだけに、小倉董子さんにとっては新鮮であった。 |
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昭和16年 小学校3年 猿羽峠ハイキング 左から父 幹次、姉 節子、董子、 祖父 13代 後藤又兵衛 |
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戦時中、入学した女学校では胸に血液型をかいた名札をつけられ、戸主の名が大書きし、その下には後藤又兵衛の孫とかいてあった。その時から同級生は「孫ちゃん」と、彼女のことを呼ぶようになる。 マゴちゃんは山形市立第4小学校に入れられた。付属小学校では転勤族が多く、生涯の友だちができにくいので「いつも隣近所で遊べる学校がいい」と、幹次さんは言い張った。 董子さんは髪形を男の子のように短く切り、家の中では女の子相手に戦争ごっこをやっていたという。 その夏、終戦、子供たちにも平和な生活がおとずれていた。県立第一高等女学校に入った董子さんは、翌年冬山スキーをやるようになる。 たまたま学校には復員兵の教師が多かった。生徒と教師の間はざっくばらんに近づき、戦前までのお堅い教育が遠のきつつあった。 「ねえ、先生もいっしょに山へ行こうよ」 「いいね蔵王なら日帰りできる」 |
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月山にて |
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スキーをはいた教師と生徒は頬を染めて雪道を登っていった。リフトもゲレンデもない蔵王は雪におおわれ、ところどころに樹氷になりかけの木立がのぞいているだけである。頭をだしている木々をうまくよけて、董子さんたちは思い思いのスタイルで下へ滑っていった。 高い所は誰も通っていない新雪が蒼味をおびていた。日が差すと、雪がきらきら光りだしてくる。 「おーい、おーい」 先頭のひとりが滑りおり、先に声をかけて大丈夫のサインを送ってよこす。つぎつぎに隊列を組んで下へおりていった。のどかで素朴な感情が舞いあがる雪煙の中へすっぽりとけ合い、日が暮れるまで彼女たちはスキーをたのしんだ。 山の日暮は早く、夕日に輝きだす山頂は透明なオレンジ色になってくる。 「先生、学校に登山スキー部をつくろうよ」 董子さんたちは教師に提言した。 「それもいいね」 若い教師は2つ返事で、共鳴する。1日の山登りの満足と胸のすくスキーの疲れが快く、 「スポーツは理屈じゃないね」 と、教師はうなずいていた。 戦争中に厳しくあった男女差別から解放され、先生も心を開いていた。 「クラブ活動に新しく登山スキー部を発足させようよ」 生徒の口説きで、女学校にそれから間もなくスキー部が作られた。 やがて卒業時になり、幹次さんは 「早稲田大学なら入れてやるよ」 と、いいだした。父親の山に対する思いが母校に娘を駆りたて、董子さんは山の刺激はあっても、とんちんかんな思いで受験をした。 3科目の受験教料が彼女をひきつけ、早大の試験を受けてみる。 |
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