登山家 小倉董子さん

(1)父と娘の共通項

水戸部 浩子

 
       
   

 いつ思いだしても初めて山の気にふれたときの幼年の印象は、忘れられない。大人にまじり、子供らしくない役割を演じた山での交流は幼いだけに、小倉董子さんにとっては新鮮であった。

 大人たちはスキー宿で声高に宴会をやっていた。ぽつねんと子供がひとりまじっている。みんな赤い顔をしているのはお酒が入っているせいである。董子さんは熱心にしゃべりあっている山好きな仲間たちの顔を黙ってみつめていた。

「ねえ、そうだろう」
共感を強制するひとや登山計画をしきりに語る者など、さまざまな山の話題の中で、少女は山岳の知識をしぜんに身につけていく。
父親が大の山好きだったからである。

「お前も行くか」
黙ってうながされ、初めて登った山は蔵王山であった。この記憶は専門的に山登りをやるようになった今でも有力に作用し、なごやかに心の中へ照りかえしてくる。

 山の仲間との「交友」は、父親の後藤幹次さんによって教えられた。早稲田の山岳部員であった父の影響で、はやくに登山の知識をつめこまれた少女は「男の子が欲しかった」一家の願いをいれて、男児のように育てられた。

 それでも小さいころは内気で人前にでるのが苦手で、2つ上の姉のスカートをにぎり、いつもはにかんでいるような子だった。姉のあとをついて歩き、よそめにはおとなしい子としか映らない。

 
       
 
       
   
昭和16年 小学校3年
猿羽峠ハイキング
左から父 幹次、姉 節子、董子、
祖父 13代 後藤又兵衛
 
       
     戦時中、入学した女学校では胸に血液型をかいた名札をつけられ、戸主の名が大書きし、その下には後藤又兵衛の孫とかいてあった。その時から同級生は「孫ちゃん」と、彼女のことを呼ぶようになる。

 マゴちゃんは山形市立第4小学校に入れられた。付属小学校では転勤族が多く、生涯の友だちができにくいので「いつも隣近所で遊べる学校がいい」と、幹次さんは言い張った。

 董子さんは髪形を男の子のように短く切り、家の中では女の子相手に戦争ごっこをやっていたという。

 その夏、終戦、子供たちにも平和な生活がおとずれていた。県立第一高等女学校に入った董子さんは、翌年冬山スキーをやるようになる。

 たまたま学校には復員兵の教師が多かった。生徒と教師の間はざっくばらんに近づき、戦前までのお堅い教育が遠のきつつあった。

「ねえ、先生もいっしょに山へ行こうよ」
「いいね蔵王なら日帰りできる」
 
       
 

月山にて

       
     スキーをはいた教師と生徒は頬を染めて雪道を登っていった。リフトもゲレンデもない蔵王は雪におおわれ、ところどころに樹氷になりかけの木立がのぞいているだけである。頭をだしている木々をうまくよけて、董子さんたちは思い思いのスタイルで下へ滑っていった。

 高い所は誰も通っていない新雪が蒼味をおびていた。日が差すと、雪がきらきら光りだしてくる。

「おーい、おーい」
先頭のひとりが滑りおり、先に声をかけて大丈夫のサインを送ってよこす。つぎつぎに隊列を組んで下へおりていった。のどかで素朴な感情が舞いあがる雪煙の中へすっぽりとけ合い、日が暮れるまで彼女たちはスキーをたのしんだ。

 山の日暮は早く、夕日に輝きだす山頂は透明なオレンジ色になってくる。

「先生、学校に登山スキー部をつくろうよ」
董子さんたちは教師に提言した。

「それもいいね」
若い教師は2つ返事で、共鳴する。1日の山登りの満足と胸のすくスキーの疲れが快く、
「スポーツは理屈じゃないね」
と、教師はうなずいていた。

 戦争中に厳しくあった男女差別から解放され、先生も心を開いていた。

「クラブ活動に新しく登山スキー部を発足させようよ」
生徒の口説きで、女学校にそれから間もなくスキー部が作られた。

 やがて卒業時になり、幹次さんは
「早稲田大学なら入れてやるよ」
と、いいだした。父親の山に対する思いが母校に娘を駆りたて、董子さんは山の刺激はあっても、とんちんかんな思いで受験をした。

 3科目の受験教料が彼女をひきつけ、早大の試験を受けてみる。