危機一髪救う動物的カン

小倉董子

   
         
    うっとうしい梅雨が明けると、待ちに待った夏休みである。海や山は超満員になる季節でもある。

 海や野山を歩きながら、またオートバイに乗りながら、ヘッドホンカセットを着け音楽に熱中している若者に出会うと、ちょっと気になることがある。

 ながら族、という流行語が若者の代名詞として定着したいま、老婆心と一笑に付されるかもしれないが、危険が近づいた時、いち早く自分の身を守ることができるのだろうか、と。

 動物は本来、五感(視、聴、臭、味、触の5つの感覚)を生ずる5つの感覚器官、すなわち目、耳、鼻、舌、皮膚という神さまが与えてくださった重宝な五感を持ち合わせている。それは使いようによっては、コンピューターよりも優れていると私は信じている。

 人間が自然とともに暮らしていたころ、この五感は有効に働き、危険をいち早く察知し、身を守ることができただろうし、たぶん喜怒哀楽を素直に表現していたに違いない。いつのころから私たちは、その素晴らしい感覚を放棄してしまったのだろうか。

 人間も動物には違いないが動物と違うところは、欲望があるために、物がないと知恵を働かせ便利な物をつくり出す。それが先人の知恵として私たちに受け継がれてきた。

 だが、文明が発達し、科学技術が進歩し、私たちの物質的な生活は豊かになったが、いつの間にか人間として一番大事にしなくてはいけない感覚機能をおろそかにしてしまっているのではないだろうか。

 マンションに飼われているペットの犬や猫が、既に動物的な感覚まで失いつつある、という現実がある。

 私たちが人間本来の姿を取り戻すためにも、この夏こそ自然の懐に飛び込み、自然の厳しさの中で五感がどれだけ稼働するか、自分自身を試してみるのもよいだろう。

 できれば人込みの観光地を避け、文明の利器を放棄して自然に立ち向かってみよう。別の世界が見えてくるかもしれない。

 耳を澄ますと風や鳥、動物たちのささやきが聞こえてくるだろう。肌に感じる冷たさや湿りっ気が天候の急変を教えてくれるだろう。

 体で覚えることの重要さは、自然にほうり出された時、初めて分かる。体験的にいえば、動物的なカンが、これまでの私の人生のなかでどれだけ危機一髪を救ってくれたか分からない。

(昭和60年7月 共同通信社から配信)