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山の先輩 小倉董子さんに思う

田部井淳子
〔1939年生まれ。登山家。女性初のエベレスト登頂者〕

 快挙! 日本女性アフリカ最高峰キリマンジャロ登頂に成功--早大赤道アフリカ遠征隊に参加していた後藤(現姓・小倉)董子、鈴木(同・川井)耿子の二人の日本人女性がキリマンジャロ主峰、5895mに見事登頂した-- この新聞の見出しと記事を、私は、福島県三春町の自宅、十畳間の縁側で読んだ。 大きなキスリングを背負い、ゴーグルを額まで持ち上げている二人のたくましい姿の写真が大きく載っていた。

 

 ヘェー、すごい人もいるんだなぁー、と思ったものである。まだ私は高校二年生だった。布団の下に敷いたひだスカートののしが少しめくれ上がったのを気にしながら、学校へ行く前に広げた新聞から、「アフリカ」「最高峰」「キリマンジャロ」「日本女性」という文字だけが、踊りだしているように目に飛び込んできた。

 

 その当時は、朝日新聞の朝刊に井上靖の「氷壁」が連載されていた。学校の仲間との話にも、この小説が時どき話題に上るので、毎日これを読んでから学校へ行くのが日課になっていた。 いつもなら小説の欄だけ読んで、あとは大あわてで家を出るのだが、この日に限って私は社会面を開いて、この記事にぶつかり、体の五感の一つが反応したのである。

 

 山形県出身、蔵王山や吾妻山で鍛えた体力で困難を克服した-という記事に親しみを覚えたのかもしれない。吾妻山には、私もそれまでに三度ほど行ったことがあるからだった。 小柄で、小さいころから体が弱かった私は、運動の選手に選ばれたことが一度もなかったから、「前畑秀子、オリンピックで金メダル!」とか「日本女性キリマンジャロ登頂に成功」などという、強くてたくましい女性像に憧れてもいたのであろう。

 

 これが、私が小倉董子さんを知ったはじめての時だったから、もう三十年以上も前になるのだ。まさかそれから十年後に、自分にもヒマラヤへ行けるチャンスがめぐってこようとは、夢にも思わなかった。

 

  1969年、女だけで海外の山を目指そうという目的で「女子登攀クラブ」が結成された。

 当時、社会人山岳会に入って岩登りに夢中になっていた私は、この機を逃したら、もう外国の山、とくにヒマラヤなどという所へは行けないだろうと思っていたので、積極的にクラブに入って仲間を集めた。1970年にネパール・ヒマラヤが解禁されるから、女だけでアンナプルナⅢ峰(7577m)へ登ろうという計画が具体化していた。

 

 その頃のヒマラヤ遠征といえば、日本山岳会のような大きな組織のごく限られた人たちだけにしか行く機会はなかった。経験者の多くが日本山岳会の会員であったため、遠征について何でも知りたい、聞きたい、教えてもらいたいという強い興味から私は入会を思い立ち、会に紹介していただいた。

 

 その日本山岳会の集まりで私は、はじめて小倉さんにお会いすることができたのである。 この人がまさに、あの新聞の見出しを飾ったキリマンジャロ登頂隊の小倉さんかと、私は失礼もかえりみず、しみじみと見つめてしまったものだ。 ちょっと私より太めかな(失礼)とは思ったが、自分とあまり変わらない背丈、体つきに驚かされた。もっとゴツくて、いかつい、きつそうな人を想像していたからである。短い髪が若々しく、にこやかで気さくな、とてもあのキスリングを背負った写真と同じ人とは思えなかった。

 

 新人の私には、日本山岳会というのは歴史も権威もあるが、それだけに保守的であり、エレベーターに乗る順番から、座るときの席順まで序列のある、かたくるしいところだなというイメージがあった。 当然のことながら、小倉さんもそういう人だと思い込んでいた。ところが実物は違っていたのである。うれしい思い違いであった。

 

 たまたま私たちの計画したアンナプルナⅢ峰登山隊は、いろいろな山岳会に所属する人びとの寄り集まりだったため、隊長を誰にするかとか、隊員の決定などでゴタついていた。そのことを心配した小倉さんが、当時アンナプルナⅢ峰の隊長を務めた宮崎(現姓・久野)英子さんと副隊長の私を大久保の自宅に招いてくれたのである。 どうせ何か言われるのだろう、キツイ言葉で非難されるのかもしれない…と一方的に思い込んでいた私は、大いに緊張して小倉さんのお宅に伺った。粗相のないようにしなければ、と自分に言いきかせていた。

 

  「どうぞ、こちらの方が台所に近いから仕事ができるので…」と、応接間ではなく居間の方に通していただいた。小倉さんは、私たちから事情を聞きながら、時どき台所に立った。 あら、家事をなさってるんだヮ。まぁー、ふつうの主婦じゃないか…。私の気持ちの緊張は、だんだんに緩んでいったのである。 「ただいまぁー」という元気な声がして、ご子息が小学校から帰ってきた。 「今日のおやつはシチューよ。ハイ、熱いうちにお上がり」と、白くてやや大きめのスープ皿に、大きく切ったジャガイモの入った(私もよく見ていたものである)ミルク色のシチューをよそって、テーブルに敷かれたランチョンマットの上に置いた。

 

 いまの私なら「あーら、おいしそうですネ。小倉さん、私にも一口ください」などと平気で言っているところかもしれないが、その頃は、とても気やすく話せる人ではないと思っていた。 だが、このシチューの日以来、私はすっかり小倉さんに対する見方が変わったのである。 私たちと同じなんだ。家庭を持ち、お子様のめんどうを見、その上、親ごさんも見ていられ、さらに山登りも続けている、すばらしい女(ひと)なんだと、心から思えてくるようになった。

 

 その後、日本山岳会の集まりで、あるいは朝日カルチャーセンターで、時どき小倉さんにお会いするようになった。気さくで、オシャレで(小物のオシャレもとても上手)、家庭的。さらには、これから山を目指そうという人びととの指導に心を砕きつつも、なお自らの冒険も続いているのである。

 

 小倉さんの元から巣立った多くの人びとが、それぞれ山のリーダーとなり、輪が広がっていくのはうれしいことだ。小倉さんの人柄にほれこむ人が、今後もますます増えていくだろう。 私はまだ、自分の山登りの域を出ていないので、そんな小倉さんを尊敬し、まばゆい思いで見つめている。

 

 彼女の著書のひとつである『女の山歩き 山登り』(山と渓谷社刊)の中で- 「仕事一途に独身を貫くのも、その人の生き方ですが、女と生まれたからには、男のできない体験をやってみるのも、人間として愉快なことではありませんか」という一節がある。

 

 私もそう思う。結婚、出産、育児を通して自分の山登りが深まっていったように、私は思うのだ。家庭という枠があるから、むしろ私は安心して山に行けたのだろう。小倉さんという山の先輩の生き方が、お手本としてあったことも大きい。 今後ますます、オシャレ上手になり、すてきな山の仲間を増やし、自分の山域を広げていかれることだろう。それを楽しみにしつつ、私もまた自分の山を広げていきたい。 1990年8月

 

小倉董子著「山歩き讃歌」に掲載された文より抜粋