早稲田の山と女性の登山

小倉董子

次々と女性グループが海外の山へ

 日本の社会も落ちつき、女性グループがヨーロッパアルプス、南米、ネパールへ、そして6,000m峰から8,000m峰へと挑戦はつづいていた。

 

ワイナ・ポトシ

南米ボリビア
アンデス ワイナ・ポトシ(6800m)
宇宙観測所より

 

 NZから帰国後、私は山岳部先輩の小倉と結婚。オリンピックに日本中が湧いていた1964年、早稲田大学山岳部の女子部員は1人となって、14年間の幕を閉じた。奇しくも長男が誕生する。

 

 女子部員との交流をつづけ、閉鎖まで見届けた私は、閉鎖後再び日本山岳会に戻り、1960年~70年婦人懇談会担当理事となり、女性会員との交流を深める。そしてまた、文部省登山研修所の専門委員として、女性登山指導者養成に関与する。どこでも話題は、女性は結婚、出産、育児とに追われ、指導者が育たないという悩みは変わらなかった。だが社会や家庭からは、ようやく理解され、解放されるようになりはじめていた。

 

登山研修所

文部省登山研修所 昭和50年 前列左 小倉

 

 1975年、国際婦人年に、田部井淳子が世界初の女性として、エベレストに登頂を果たした。思えばアフリカ遠征の時、たったの1ドルの価値しか認めてくれなかった私たち女性を、田部井は、100万ドルの価値にしてくれたのだと思うと、うれしかった。

 

日本山岳会年次晩餐会

1988年(昭和63年) 日本山岳会年次晩餐会
親子三代会員となって
左から茂暉、浩嗣、幹次、董子