山岳部のOBである私の父後藤幹次(昭和2年卒)は、山岳部に女性が入部できるとは、知るよしもなく、入学と同時に、私を日本山岳会に入会させた。父は地元山形の登山家育成のため、登山界で活躍する岳人を講師に迎え、そのパイプ役をつとめていた。日本山岳会の大先輩槙有恒、三田幸夫、藤島敏男、村井米子各氏、稲門山岳会では、麻生武治、小島六郎、山下一夫、渡辺公平、今井友之助などの諸先輩は、よく山形の山へ来てくださった。
男の子を持てなかった父は、悔やんでいたようだが、娘でも山好きになるかもしれないと思ったのか、私は中学、高校時代、よくお供をさせられた。麻生先輩のヨーロッパ仕込みのテレマークスキー技術に目を見張ったのは、蔵王の樹氷原でのことだった。きつい冗談を交わしながらも、内外の山の話をする時の大人たちの、いきいきした姿が不思議でならなかった。
井の中の蛙の娘を、親交深い山仲間へ託すための日本山岳会入会だったのだろう。